「数寄屋」
建築には二つの系譜があり、民家は自然に対しての数奇屋は社会に対しての建築である

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□豊穰な余白と間
□中心型概念規定
□都市・住宅・椅子
□都市ー建築ー家具ー道具
□自己の内なる告白

建築は住まなくては評価できないという意見もある。だからといって何年住めば評価できるのかといえばそれも確かではない。住まないどころか遠く離れた外国の建築さえも雑誌の上だけで感動したりして良い建築だといったりする。ここでは建築が住むためという意味から離脱して読み、評価する対象となっている。
確かに、建築は様々な視点で受け止められている。ある人には不動産価値だけで、ある人は美学的見地からと、建築を読み取る視点は様々あるのだが、その現実の建築を体験することなく写真だけで云々することだって、こうして可能なのである。
それは、現代では建築が思想のメディアとして捉えられているからである。ここでは建築は写真や図面などからその建築で語られている思想を読み取って、その住み心地や資産としての価値などは無視して、建築の空間や構造やそれで語られている思想に感動し、人々と議論することが可能なのである。
現代建築はかっての住むという機能を越えて思想を表現する言語として機能するようになったのである。
建築のこのような存在の形は驚くことに、実は十六世紀の半ばに日本で既に生まれていたのである。
数寄屋がそれなのだが、数寄屋は十六世紀の半ば、当時の社会では最下級の地位にあった商人階級の千利休によってはじめられた建築の形式である。
当時の社会の支配者は武士階級であり、豊臣秀吉はその頂点にいて武士階級のたしなみとして、千利休に茶道の教えを受けることになる。豊臣秀吉と千利休の茶道を通じての長いかかわりは利休が切腹を命じられ命を落とすまで、壮絶な茶道を通じての二つの階級の激しい闘争であったのである。
当時の武士階級は書院造りという建築様式の家に住んでいたのだが、この書院造りは左右対称の壮大なもので、天井は高く金箔銀箔の障壁画に囲まれたものだった。お金にあかせて彼等の権威を象徴し庶民を威圧する建築であった。
千利休の茶道の指導はそのような秀吉への美意識と価値観への挑戦であった。商人階級の千利休は交易によって海外からの文物を容易に手に入れることができる、海外の文化に馴染み新しい渡来品を楽しむこともできる、交易はまた金銭をもたらし、使うに明け暮れる武士階級の財政的危機とは対称的な状況であったであろうことは想像が容易である。
千利休はこのような状況で様々な形で豊臣秀吉にメッセージを送り続ける。利休のすすめる茶室は豪壮な寝殿造りに反抗するかのように草庵化に向かい、寝殿造りの対称形を壊して、崩れた廃屋のイメージを引用したり、整然とした配置を拒絶する渾沌を表現した色紙窓など、様々なメッセージを数寄屋に込めていくのである。
秀吉の黄金の茶室は、こうした草庵化に向かう千利休への秀吉からのメッセージであったのではないかと思う、利休からのメッセージへの返信なのだ。
数寄屋はこうして、千利休によって反抗のメッセージとして形成されていく。今日では日本的な様式として好まれているに過ぎないのであるが、千利休はこうして様々な形で、数寄屋だけではなく茶道具などでも表現し続ける。数寄屋は商人階級の武士階級に対する反旗であり、壮絶な階級闘争であったのである。
この数寄屋のメッセージとしての建築に対して、民家は素朴な思想が生み出した道具としての建築である。数寄屋が社会的な体制に向けての建築であったのに対して、民家は自然に対しての建築であった。自然の猛威から自分を守るために、身近に手にはいる素材を用い、その素材を用いた技術を探し開発して、しかもその社会の仕組みから発想した建設の仕方で完成させている。ここには社会的な反抗という現代的なテーマはない。
民家と数寄屋という二つの建築の系譜はこのようにしてつくられてきたのである。思想の表現としての現代建築はこうしてもう十六世紀の半ばにその原型をつくりあげている。数寄屋は単に日本人の伝統回帰やアイデンティティ探しで評価が高まっているのではない。数寄屋そのものが現代建築のあり方を示唆しているのである。


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■鉄の数寄屋「S邸」 2003
H型鋼による鉄骨構造と鋼断熱壁材パネルでつくられた住宅。一階のすべての外壁がガラスで覆われて透明で、2階は基本的に壁の表情で終始している。一階での風景はガラスを通じて外部までがインテリアのように見える。