「物学」
物学とは人との関係による、物と環境の学問である
■関連するキーワード
□もの
□モノと環境
□反転
□中間領域の美
□人間と物の融合
□物の組織
□中心型概念規定
二十一世紀は環境の世紀だという。確かに環境学科は二十世紀末に雨後のたけのこの如く様々な大学に生まれたし、世論は地球環境の将来を憂えている。問題意識としては確かに環境問題は今世紀最大の問題なのだが、いざ、大学の環境学科は、となるといったいそれがどんな学科なのか曖昧でどこの大学でも困惑ぎみである。要するに環境産業という産業がないのだから、卒業する学生の就職も難しい。環境の意味が大きすぎてしぼりきれないのだ。結局は名前の違う建築学科となってしまったり、都市計画学科とあまり違わないものになってしまっている。もちろん、環境に焦点を当てた学問の成立は、その意義はあるのだが、なぜそのように曖昧になってしまうかは環境の概念そのものにその原因がある。
環境とは人間を取り巻く空間の状況のことをいう。その空間の範囲は限界がないから都市環境ともなり自然環境ともなり、地球環境や宇宙環境全般にもなる。よく考えてみると環境の概念には実態が伴わない。人を取り巻く「状況」なのである。このままでは環境はとらえ所のないままになってしまう。
ところが、その環境の詳細を見ると実は様々なモノの集合でできている。都市環境なら建築や自動車や公園などの施設や植物に人間など、という風にである。環境を捉えるのにはモノを捉えればいいことに気づく。
それに対して、モノは英語ではobjectとあり、人の対象物をいう。モノは人が対象化できる存在の形式であるのだ。環境をモノの集合と捉えて、研究の或いは計画の対象として可能な状態にする。その上で、環境をモノの学問として追及することができる。
物学とは環境をも対象とすることのできるように環境を「モノの集合」として捉えようという視点からの学問である。モノが集合して環境ができるためには、このモノの概念に人も自然も入れて考える必要がある。自己の対象となりうるものは全部含んで、都市も建築も地球さえも対象化して思考しようとするのである。
物学という概念はそもそも、レオナルド・ダ・ビンチの時代のように彫刻から絵画、建築、武器や運河まで全部を含んで対象とした建築家の時代を漠然と考えての発想であった。都市もその外にいればモノであるから、対象物として物学の対象となる。建築もその中にいれば環境なのだが外にいる人にとっては、対象となるからモノである。地球だって宇宙から対象化して観察すれば物学の対象になりうる。こうして、物学は一つの世界の見方として意味を持つことになってきた。
人工物研究所という組織が東京大学の中にあるのだが物学は似ていて大いに異なる。人工物は自然に対立した存在として、人間の創作した物を意識しているが、物学は人間の視点が問題になっているのである。
物学の視点を持ってすれば環境の解明は実に簡単になる。環境の概念を「自己を取り巻くモノの集合」と理解できる訳だから、そのモノとその外のモノの研究を推進すればいい。都市問題は建築やプロダクト製品を対象としてその集合の仕方を考えればいいし、地球環境の問題をテーマにするときは具体的な生産物の廃棄問題や具体的な植物やその生態を極めればいい。
ほとんど逆転の発想である。モノの大量生産時代とモノへの憧れの時代を反省して、環境を考えるべき「環境時代」だからこそ、環境をモノに置き換えて考えようというのである。物学の概念はまだ組織だって構築できている訳ではないのだが、視点の提案として受け止めてもその価値は十分にある。
「モノはその外に自己がいるときの存在形式」であり、「環境はその内側に自己がいるときの存在形式」である。そして、「モノが複数、自己を取り囲むことでモノは相互にリエゾンして環境になる」のである。
「自己が乗る自動車に切れ目を入れてそのまま裏返せば自動車の上に自己が乗るオートバイのようになる」言い換えれば「自動車は環境であったがオートバイというモノに変わった」のである。「自己が入ったまま、その建築を裏返せば自己はその上に乗るか、その傍らにいることになる」従って、「建築を裏返せば家具のようなものになる」。なぜならば自動車も建築の自分を覆うから環境なのだが、反転すれば内部であるはずの建築や自動車の内皮が外皮になって、それの外に追い出される。裏返すことで建築も自動車も対象化できることになる。もはやここでは建築も自動車もモノの領域に属してしまう。
環境とモノは表裏だったのである。環境かモノかは反転することで入れ替わるのである。物学の醍醐味はこのようにこれまでの概念に変革をもたらす可能性を秘めていることである。
物学とは環境の再組織化の理論でもある。
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