「裏の世界」
裏には本音があるが、表は建前にように正当だが魅力がない
■関連するキーワード
□トポロジーの形態学
□モノと環境
□反転
□陰と陽の建築
事物の「事」には表裏があるのだが「物」にも表裏がある。事は裏の方が面白いように物の裏も意外性があって面白い。
球といえばあのかたちを頭に描く、丸くてボールみたいなかたち。ドーナツといえばあの食べるドーナツのかたちを描く。かたちというとどうしても中がつまったものをイメージしてしまい、外から見た物のかたちをイメージしてしまうのだが、かたちにも裏がある。球形の裏、すなわち球形の空間が球というかたちの裏にある。ドーナツというかたちの裏にも円形につながったチューブのような空間のかたちがその裏にある。
この球やドーナツという外からのかたちがモノのかたちであり、その内面、球形の空間や円形につながったチューブ状空間が環境のかたちである。かたちというとどうも物のかたちを頭に描いて、空間のかたちを描かないのだ。
球といわれるとボールを描いてしまうことが示すように物は認識しやすく捉えやすい。内部空間としてのかたちは理解しにくいように環境も捉えにくく、そのためにいつもはその環境の概念も環境のかたちも忘れている。
地球は球だが、その表面に生息しているのが人間である。地表なるものが体重を支えてくれているのだが、その地球の内部には日ごろ忘れている巨大な地中という世界が広がっている。
樹木というと、我々は地面に立ち、枝を伸ばし、葉を茂らせる「こっちの世界」をイメージする。しかし、実は地面の下にはそれと同じぐらいの大きさの根の茂みともいうべき広がりがあることを忘れている。「こっちの世界」での判断では木なのだが、「あっちの世界」、地中の世界から観察すれば幹と枝と葉こそが根に見えている筈である。地表の裏側にたって地中に生息すれば、根こそ樹木なのである。球の裏側は球形の空間と言ったが、実はそれが土であっても空間である。土中人間からすればもう一つの裏の世界がある。人はモノを見るとき、その裏のコンテンツをあんまり考えないでいることの証拠と言えそうである。
洋服に表裏があるのは当然だがその意味を考えてみると興味深い。洋服はポータブルな小さな建築であると言っているのだが、それは、「洋服をどんどん大きくして行くと頭がその中に入り、腕も足もその中に入ってしまって、洋服はまるでテントの建築のようになってしまう」ということである。
人間が住んでいるのは洋服でも内部であり、洋服の外観がどんなに素晴らしいものであっても内部空間がよくなければ快適な洋服とは言えない。内部空間は洋服の裏地であり、そのかたちであり、裏地の素材と裁断縫製のかたちがしっくりと人間の身体に合っているかが人間の身体感覚を決める。
誰でも、外観をイメージしやすい。そのモノの「こっち側にいる」人間には形が見え、内部はイメージしにくい。樹木を裏から見る、洋服を裏から見る、モノの形をすべて裏から見るともう一つの世界が見えてくる。
日本列島だって裏日本というのがある。裏日本は裏だから魅力がある。裏町があり裏道がある。裏には本音があるが、表は建前のように正当だが魅力がない。裏に視点を当てると球の裏だって負の空間だし、地球の裏だって負の空間だし、洋服だって、街だって、人生だって裏が本音に見えてくる。
カオスがあるのもこの負の空間である。本音はカオスである。裏道や裏町だってカオスだ。どきどきする魅力に満ちたカオスがある。男が表なら女は裏である。確かに男は建前人間で女は本音で生きている。男性の性器はあっけらかんとして隠し事がないが、女性の性器は陰湿で秘部という名称が似合う。
日本の空間は陰翳を重んじているが、この陰翳も光ではなく陰を良しとしている。民家の内部空間は外からの明かりが障子に映えて逆光の美しさを描き出す。光ではなく影が主役であり本音の部分である。数奇屋は豊臣秀吉の書院造へのアンチテーゼとして千利休によって生み出された建築である。すべてのディテールや思想は武士社会の価値の裏側を表現している。華美ではなく質素に、小さく、ここでも微細なものに美しさを見いだしている。これも裏の美である。
日本の建築は外からではなく内部からすべてを捉えている。外観は重視されず内部からの視線が重視されている。これも内部という裏の重視である。
日本の美意識は女性的であり、内部からの発想であり、陰翳であり、微細な、そして微かな美しさをすべて裏の美として表現している。
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