金箔の皿

2008/01/21


金箔の皿をつくった。食器といってもけやきの生地に金箔を張り重ねた漆器なのだからどの程度の使用に耐えるのかがまだ分からない。
金箔は兎に角美しい。どうしても禁欲的にデザインを展開して来た僕には金箔と出会わなかったら決して考えもしなかったものなのだが,美というのは実に不思議である。出会って,そして惚れ始める。女性との出合いと似ている。




金箔はどう考えてもゴウジャスでシンプルを良しとするこれまでの僕には否定的な表情をしているしその上,箔だから表層的で虚飾に思えてくるのに、今はこの金箔が好きで溜まらないのだから不思議である。
昨年の5月にウィーンに出かけてグスタフ・クリムトの作品を数多く観た。その作品に見る金箔が僕のイメージにダブっている。昨年の夏にはマダガスカルへの旅の途中でバンコクを訪れて金色の寺院を見た。この金も僕のこの金箔の皿にダブっている。
金箔の屏風が薄暗がりのなかでしっとりと輝く姿を語っていたのは谷崎の陰翳礼賛である。そこで知った陰翳の深いところで輝く華麗なイメージもまた、この金箔の皿とダブっている。
婦人画報の取材でアバンギャルドの茶という企画に僕が檀ふみさんにお茶を差し上げるシーンがあった。3年程前にニューヨークで開催した「茶の新しい道」という展覧会に出品した「蛍」という立礼の卓と一緒にこの金箔の皿を菓子器として使ってみた。「蛍」は明かり障子を反転させて家具にしたもので光を中にいれたまるで立礼卓自体が照明器具のような作品なのだが、ここでのイメージは「陰翳」だと考えていた。その「蛍」の和紙のテーブルの上に金箔の皿を乗せたのである。谷崎の陰翳の中にみる金屏風のイメージを思い出してのことである。檀ふみさんの風情と「蛍」とこの金箔の皿はとてもよく合っていた。
「陰翳」は華麗でなくてはならない。死も生も華麗でなくてはならない。命は華麗でなくてはならない。人生は華麗でなくてはならない。夜もその奥に華麗な命を秘そませているのではなくてはならない。
僕はこの金箔の皿がことのほか気に入っている。
(婦人画報の4月号にこの茶の記事がでる)
(金箔の皿は金沢の箔座の製作による)