EGOによるECO

2008/06/16
ECOは社会意識がなければ実現しない。自分だけのことを考えている人にはこの発想は生まれない・・・こう書くと「そうだよ、そうだよ!」という声が聞こえてくる。
もちろん、そうなのだけれどそれでは本当にはECOは実現しない。
社会を愛することって本当にできるのか・・・?と僕は思う。人類を愛することってできるのか・・・?と、僕はその考えに眉唾だと言いたくなる。
ねえ!人類をちゃんと抱きしめた?・・・僕は抱きしめることのできるひとりひとりの人間だけなら愛する自信がある。だけど・・・人類なんて抽象的な概念は愛と言っても抽象的以外の愛にはならない。社会だってそうだ。
あのアキバの無差別殺人がどんな動機で起こるかは分かるような気がしている。あの犯人は人を見ていなかったのではないか・・・と思う。人が見えなくなっていたのではないかと僕は思う。
社会が僕に敵意を持っている・・・とか、社会が自分を認めてくれない・・・と思っているのではないかと思う。そんな社会というものは単なる幻想なのに・・・かれは社会があると思い、それに裏切られていると感じていたのではないか。
ひとりひとりの人を見ていたらこんなことは起こらない。社会には刃を突き刺しても血はでない。人は血を流す。そして、人は血の暖かさを持っているのだが社会にはそんな熱い血はない。
かれは人を見ていなかったのだろう。人が見えなくなっていたのだろう。
ECOも本当はひとりひとりの人の苦しみや辛さから始まらなくてはならない。
自分が苦しむことになることを知ることからはじめなくてはならない。EGOこそECOの始まりなのだ。自分や他の人という具体的な人をちゃんと見る教育や世の中づくりが必要なのだ。
「細部に神が宿る」とか「細部こそ全体」という思想はデザインだけではない。社会とは個人という細部に潜んでいる。社会などという概念は幻想なのである。秋葉原の事件はこの点に起因している。そしてこれからの社会づくりは人づくりであることを強く意識しよう。