群体の思想

2008/11/19
「貪欲が民主主義を食い散らかし、市場の行き過ぎを推し進めたその結果ですから、バランスの取れたところまで、調整が不可避です。人間っていうのは、教訓を学んでも、すぐ忘却のかなたに追いやるのですね。でもそれが人間らしいといえば、人間らしいところです。また、バブルといっても、出現するたびに意匠が違っているので、人間も少しずつは賢くなっていると思います(思いたい)。 」

     『群体』
「資本主義のご本尊の米国での蹉跌をみて、市場は信頼できない、計画経済だ、官僚主導だ、規制強化だ、社会主義だ、という主張が聞こえてきますが、それが一番恐ろしい。 無謬と錯覚する体制では、競争を通じて進歩が生まれることもないし、修正もきかない。 市場原理を堅持したうえで、透明性を高め、参加者のモラル改善をはかる、これが王道だと思います。」

これは元日銀理事で現在証券会社の会長をしている友人がくれたメールである。

中国にいると「計画」について考えさせられる。計画性のある人生、計画をもつ都市など計画性はいいことと思われている。計画性がない人生も都市も困った奴であり知性のないことだと考えられている。でも本当かなと疑うべきだろう。計画は現在からの未来だからこんなに激しい変化の中では危ない。

僕は「群体」ということを主張している。群体とは1人ひとりの自主的な気遣いで出来上がる調和のことである。ここでは全体というものを否定している。人々のいま向かおうとしている未来はその人の中で多くのこれまでの経験とその記憶とこれからの夢や希望によって誘導される。一瞬一瞬がこの記憶と夢によって選択されて次の行動が決まる。その間、環境からの情報だって入ってくる。人は周りを見回しながら自分の歩く道を人々との間合いを見ながら決定している。
集落も群体である。集落は1つずつの家が互いに気遣いしながら都市を形成する。ここには都市という全体概念がない。全体性がないから計画性もない。

集落はどんなに多数の家が増えても集落であり続ける。まさに東京がそんな集落である。

この考えは理想論だと言われそうである。たくさん集まりすぎた巨大な集落では、また大きな人々の集団ではこの群体の原理は通じなくなるだろうということである。
このとき、「計画」の必要を人々は説き始める。計画性がないから混乱するのだと言い始める。
それでも僕はこの群体の理論を主張し続けたい。それはこういうことである。
群体を群体であり続けさせるのは「情報」なのだ。人間の集団でも家の集落でも群体であり続けるためにはお互いの「気遣い」が必要になる。気遣いとは相互の気持ちなどの状況を知り合い、それに対して姿勢を決め直す相互の「フィードバック機構」のことである。
部屋の温度をコントロールするのは「現在の温度を感知して対応する仕掛け」が必要である。すべての群体はそのフィードバック機構を備えているから群体であり続けることができるのだ。
世界的なこの金融危機も根本の原因は情報のフィードバックの欠落にある。人は、経済の世界でも危険が迫ればそれを回避する行動にでる。この危険だという情報のフィードバックが途絶えることで危険が限度を超えてしまう。それを回避する仕掛けが働かなくなるのだ。この過剰になった危険の集積をバブルというのである。
計画性はその危険が増えないように計画することなのだが人の予測を超える異常な状況は現代では起こりやすい。計画を守ろうとすることでかえって事態に対処できなくなるのである。
計画性を持たない、その場その場での対応の素晴らしさ・・・その当たり前の人間的な原点に立ち返って、巨大になった組織の見えにくい仕組みにフィードバック機構を設けることこそが王道なのだろう。
イチローはどんなボールが来ようとも臨機応変に対応することができるからすぐれたバッターなのだ。ここにはボールの情報を逐一キャッチする感性とボールへの身体の対応のまっただ中での情報の絶妙なフィードバックがあることでイチローは適宜、バッティングを動きの中で調整してヒットを生み出しているのだ。
イチローの頭脳にはこれまでの経験の記憶と動物的な勘と打ちたいという欲求とヴィジョンが渦巻いていてその瞬間瞬間でボールに対応しているのである。

瞬間の中の絶妙な対応で群体は調和を壊すことなく動的に調和している。村落も人間関係も世界経済もこの仕掛けを設けることである。計画という20世紀的調和の概念を捨てて21世紀はこのような動的調和による群体のイメージが支配するのだろう。
北京の街での夢想である。
(2008、11,8)