トルソー/TORSO

2009/01/25
 日本の女性は、足が長いとは言えない。胴長である。西洋のすらりとした手足の美しさには、見た目、どうしても負ける。それじゃ、日本人は美しくないかというと、そうではない。西洋の美意識は視覚に偏っていてプロポーションが重視されるのだが、日本人は身体感覚で深い美を感じている。
 日本人の女性の美しさは胴の美に尽きるのではないか、と思ったりする。美の究極が見ることではなく触れることに収斂していて、長い胴はその美の感覚を満喫させてくれる。
 人間の形は簡単にいえば、胴体があって、そこから手と脚の4本の棒と頭が生えている。手はなくても立派な人間だし、脚がなくても間違いなく人間である。頭は取り除いたら死んでしまうのだが、胴体と頭とどっちが人間であることで重要なのかと考えると、きっと意見が色々になるだろうと思う。でも、僕には胴体こそ人間の根本だと思っている。確かに、頭には個性を見付けやすい顔があり、語る口があり、聞く耳も、においを判断する鼻だってあり、見るための眼だってある。主要な感覚器官の殆どが集中している。その上、それらの感覚を受け止め判断する脳だってある。そう考えると、頭の方が人のアイデンティティの拠点であることは確かである。だが、人間の本質、ひとりひとりの人間の個性ではない人間そのものの地面ともいうべき存在感は、胴の方にある。
 いやいや、こんな人体切断のばらばら事件を愛好している訳じゃ決してない。誤解なきように願いたい。僕が語りたいのは、トルソーのことでる。
 顔には個性がある。その人らしさがある。頭部だけの彫刻もあるのだが、その彫刻はどうしても「その人の肖像」になってしまう。それなのに胴体だけの、即ち「トルソー/TORSO」は作品になる。だれの胴体かという「著名性」は消えて、人間の美を表現したものになる。
 胴体に生えている手は、言うならば胴体が装備したいろいろな作業のための道具である。脚は自動車の車輪のように移動するための、これも明確な道具である。そう考えると頭部も情報をキャッチするセンサーであり、それを解析するコンピュータであって、道具にすぎない。そうなるとトルソーこそ、それらの道具をもった人間の本体に相違ない。
 トルソーには、人間の美の全てが詰まっている。男も女も美しいカーブが全体を形成している。膨らみとへこみがドラマティックである。内部の構造体である骨が適度に突出して影をつくっていて、骨と肉のたおやかな関係が心地よい。乳房や臀部の膨らみが、エロティックで美しいし、何よりも嬉しいのは、それが視覚だけの対象ではなく触覚を誘う存在であることである。抱き締め、手でその質感と形を感じることができる部位であることだ。
 多くの彫刻家がトルソーを製作する理由が理解できる。裸像の魅力は手足でも頭部でもなく、間違いなくこのトルソーにある。
 あるピアニストが、僕のこのトルソーについての話しを聞いて「バロック音楽だ!」と叫んでいた。何を感じたのか分かるような気もする。トルソーの美はバロックだ…という反応には、含蓄がある。

(写真は、インターネットから取りだしたトルソーである)



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