料理とデザインと女

2009/01/21
 おせち料理を食べていた。お雑煮を口にして、ふっと思った。味が足りない…。昨夜、隣で料理をしていた妻が、僕に「味を見て」という。その時には何か足りないと思いながら、「いい味だよ」と言ったのだが、色々な具が入ってお雑煮になってみると、やはり少しだけ足りない。
 「足りない」というこの感覚には記憶がある。旨いか不味いかではなく、「足りないか、過剰か」はちょっと違う。デザインも「何かが不足してもいけないし、過剰でも駄目だ」ということ、そして「足りている」という感覚がデザインの思想とは別に重要なのだ。
 もう一つ、元旦の朝食でのこと…。僕の大好きな田作りを食べる。名古屋に住む妹が二人、母親の味を受け継いでいて、いつも年末になると送ってくれる。それと神戸の料理人の作ったおせちの中の田作りとを比べてみる。上の妹の田作りは、母の味にそっくりである。母にちゃんと教わったのだろう。下の妹の田作りは、それに比べると少々さっぱりとして上品である。問題は神戸の料理人の田作りなのだが、これが凄い。田作りは干した魚で作るのだが、味が魚の中に染みこんでいて、外はさらっとしている。べたべたしない。妹たちの田作りは魚の外に味が乗っている。そして、そのせいで魚と魚が引っ付きやすいのだが、この料理人の田作りは、さらさらなのに噛むと味がじわっと出てくる。この違いはいったい何だろう。料理人の腕は、素人とはこんな違いがあるのだ。食べるプロセスに、どう味と食感が絡むか…、そのタイミングが大切なのだ。ぱりっとして、その後でじわっと来る味わいはいい。
 過剰ではなく、適度な足りた感覚がいいデザインである。味の種類は見事でも、その感覚の過不足が重要なのだ。そして、人の物との関わりのプロセスもまたデザインなのだろう。見て感じ、触れてどう感じるか…。そして、使っての感覚と使い慣れての感覚…というふうに、人の物との関わりのプロセスが大切なのだ。
 食物は人に似ているな…と思う。いくら美しい女でも、その味の足りない女、過剰な女はいただけない。足りた女がいい。味の種類だけではなく、その濃さの程度が大切なのだ。もう一つ、さらっといい感覚で、そのうち付き合いが深まるといい味が出てくる。そんな女性もたまらない。いや、その前に、僕自身がそんな男にならなくっちゃ…と思う。難しいな…。
(2009, 1, 1)

<写真>
飽食の上海。中華料理は食い散らかした風情がいい。日本の料理のようにテーブルがきれいに終わることはない。