2009/02/11
 サスティナブルとは、持続性のことである。生産と消費、成長と死滅、発展と終焉ではなく、継続的に生産的であり続け成長し続け、発展し続ける、そんな社会を作ろうと言うのである。
 「栄えるもの久しからず・・・」という平家物語の美意識に反する発想である。この発想の背後には、死を忌避し、厭う感情が働いている。死の生産性を信じていない危険な思想が潜んでいる。
 僕も誰だってそうなのだが、多くの人々に旅立たれている。その思い出が深いだけに、悲しさもひとしおである。ほんのついさっきまで未来を語りあっていた友人が、命をなくすと、有機物質の塊になってしまう。放っておけば、どんどん腐っていく。姿は一見変わらないように見えるのだが、よく見ると単なる人の形をしていて、命のあの輝く表情はすっかり失せている。要するに、その人はどこかへ行ってしまうのだ。それが死である。
 しかし、その死が前提で次の生命が顕れてくる。命の生誕が約束される。継続性の背景には、死がしっかりとその位置を占めている。
 1人の人間の体内でも、細胞のレベルでの生死が繰り返されている。身体は常に生まれ死んでいる。細胞の生と死があって、人間の身体は常に新鮮であり続けている。人類だって同じである。人がまるで人の細胞のように、社会という体内で死に、生まれて、人が交代している。人間が新鮮さを保ちながらその年齢まで生き続けるのは、社会のひとりひとりの人が死に生まれることと同じことなのだ。
 細胞が死ぬから新しい細胞が生まれ、人体が新鮮であり続けることが出来るように、人が死ぬから新しい人が生まれ、人類が新鮮であり続けることが出来るのである。死は生の大前提であり、死は生の一部なのだ。生まれるから死ぬのではなく、死ぬから生まれるのだ。
 サスティナブルとは、死の壮大なメカニズムなのだと知るべきである。
 もう一つ、僕の想いは、このサスティナブルという生に片寄った思想に、本来の日本の美意識を感じないことである。美人は薄命であり、はかないことを美しく思う、あの日本的美意識である。生の側から美を感じるのではなく、死の側から美を感じることである。今、日本を支配するものは西洋的思想である。自然を対象化して加工し、人間の規範に馴染ませようという思想である。しかし、日本人の美意識はみずからを自然と融合するものとして捉えている。芽生え、しげり、枯れて散りゆく、この自然の規範に自分自身を従わせる思想である。この美意識からは、サスティナブルという発想は生まれない。滅び行くことを歓ぶ美意識になる。滅びることで大きく生きる。死は悲しいことではない。
 杉浦日向子さんが「死は生の一つの形だ」と語っていたことを想い出す。多分、みずからの死を知ってのことだろう。この言葉の中にあの輝くような人柄が見えてくる。

<写真>
木々は時と共に移り変わる。一刻といえどもとどまることなく、次の命を準備して、葉を枯らし、散らして、土に帰る。自然の風景も、日々その時々の美しさを変えていく。自然の死はいつも美しい。生は美しい死のための前奏曲であるかのようである。

<物語 ーもの・がたりー>
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