また、友人が逝っちゃった

2009/03/02
「稲越功一さんが、昨日の夕方ご逝去されたそうです。穏やかな最期だったそうです・・・」こんなメールが友人から届いた。あの笑顔が脳裏に焼き付いている。僕の驚きの返信に、彼女はこう返事をくれた。「とても、浄化されたお心で亡くなられたように思われます。近々、みんなで集まってお酒でも飲みたいですね・・・」。
 人生には色々な思いがいっぱい混じっている。死んじゃった奴にはこんな思いはない。きっとすっきりと・・・、死んじゃったことにも気付かないで、消えたんだろうと思う。
 僕自身をも撮ってくれたけど、僕の建築を彼にゆだねたことがある。「僕が選んだ自分の建築三つを好きに撮ってくれる?僕の建築を犯すつもりでいいんだよ」、こう言って、僕は彼に撮影をゆだねた。
 いつも穏やかな奴だった。にこにこしていた。美しい女性と二人でいるところを見つけた時も、ちょっと照れた顔していたっけ。なんだか少年だったな。
 彼はあの時、沢山の写真を撮って、結局一冊にしたのだが、そのなかには僕の建築の窓から外の風景を撮った写真も入っていた。「すごいね・・・稲越さん、僕の建築を背中で撮ったね」とその時、僕は言ったっけ。彼は僕の建築から見える風景を、僕の建築の一部だと知っていたんだ。(『ARCHIGRAPH 黒川雅之×稲越功一』TOTO出版)
 デザインは感覚なんだというけれど、どうしてもこの言葉からいっぱいの大切な感情が漏れ出してしまう。感性の時代などという表現を見ると「あ・・・またか・・・」と思う。もう何度、人々はデザインをこういったのか。
 この僕の思い出は、その感性の時代の感性のなかに入っているの?稲越さんのあの笑顔の中にすでにあった寂しさまで捉えて感性といっているのかな〜。
寂しさや心の痛みや懐かしさなども全部入って、デザインを考えたい。稲越さんのあの寂しげで少年のようなそっとした笑顔も、デザインで捉えていたい。文学では出来ているように、そうありたいなと思う。
 どうしてだろう・・・、「生」より「死」がずっと文学的で深い余韻を持っている。(2009.2.27)

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 ちる樹木の陰