つくること

2009/03/06
 なぜ人はつくるのか・・・。この理由を僕は単純に「必要だからつくる」と考えていたのだが、近頃はそうじゃないと思い始めた。
 人はつくりたいからつくるのだ。人は欲しいからつくる以前に、何でもいい、つくる衝動を抱えていると思うようになった。
 どうも人は生まれたときから「底知れぬ不安」の中にいる。その不安が、描いたり、つくったりさせるのだと思う。
 物をつくる動機は、だから「つくる衝動」とでも言うべき、生の神秘のなかにある「不安」から始まっているのだが、その物は同時にそれ自体が人の不安を和らげるための存在だったように思う。
 不安になると人の手を握ったり、何もないのに手を握る・・・。大木にしがみついたり、大地をお腹に感じて安心したりする。椅子やデスクに身を置き、もたれてほっとしたりもする。人が抱き合うのも何かを、物を抱いて安心することに通じている。
 人が物をつくるその出発点に「底知れぬ不安」があると書いたが、この不安は「底知れぬ」と書いたように何を持っても塞ぐことのできない不安である。何も食べなければお腹がすくように、つくらなければ襲ってくる不安。宗教学者の中沢新一さんが「すべての宗教の出発点には欠損の感覚がある」と、なにかに書いていたが、この「底知れぬ不安」はその「欠損の感覚」に近いのだろう。
 母親のお腹の中にいた子供は、生まれる瞬間に巨大な忘れられない不安を体験している。それまで住んでいた空間は子宮の中。自分の体温と同じ温度の羊水に無重力で漂い、酸素を吸う必要もなく、物を食べる必要もない。安全に守られて理想的な空間だった。それが、突然、外に絞り出されるのだ。息をしなければ死ぬ。食事もしなくてはならない。体温はどんどん奪われる。重力場に置かれて自分の身体を支えていなくてはならない。
 この体験が人の底知れぬ不安を植え付けたのだろうと考えている。この抜け出せない生まれながらの不安を、人は人生のすべてで塞ごうとする。宗教もそうだし、芸術活動も友情も恋愛も、すべてこの不安のせいであろう。そして「つくること」も、ここから始まっている。つくる動機は「役立つ物が欲しいからそれをつくる」のではない。それ以前に、つくること自体が意味を持っていたのである。そこへ物自体がもつ不安の解消が、このように沢山の人工物を世界に生み出してしまったのである。物はその意味ではほとんど糞に似ている。不安が生み出す排便である。
 そこへ「人の身体の部分の働きを拡大するために道具」をつくりだし、商品として産業活動のツールになり、この物の最初の存在理由である「不安の解消」の意味と複合して、世界を埋め尽くすのである。
(2009. 3. 4)