ゴルフをやってきた

2009/05/27
 今年初めてのゴルフをした。確かに一年ぶりなのに、スタートホールからナイスショット。僕のトルソースイングは本物だ。
 スコアはまあまあ・・・。どうしても、分かっていてもそのように打てるわけではない。疲れてくると手で打ち始める。おっとっと・・・と、またトルソースウィングに戻す。その日は雨だったり曇りだったりの、決してゴルフ日和じゃない。問題はその次の日のことである。
 次の日、さすがにちゃんとスウィングしている証拠に、脚の太もも内側の筋肉が痛い。ゴルフは身体の外の筋肉を使うのではなく、内側の筋肉を使う。それは動的なはずのヒッティングを同じところでする・・・。他の運動のように身体全体が動いてはいけなくて、動的な身体を大地に縫い止めるかのように支持し、大地からの反力でボールを飛ばすからである。
 内側が筋肉痛になった。そこまではいいのだが、僕の太ももの痛いのは特に右の太ももなのだ。それが問題である。右利きの僕は、本当は左の太ももが筋肉痛でなくてはならないはずなのだ。
 それはこういうことからである。
 野球のピッチャーもそうなのだが、身体の力を大地から蹴るようにして、そのエネルギーをボールのスピードに乗せるのだが、それには身体のひねりの力を肩に伝え、腕に伝えて、腕から肘に、そして手首に伝え、最後に指からボールに伝えるという時間差があるのである。だから、右足で蹴る力を始動とすると、最後にボールが指から離れる瞬間は、大地と左足と指が一つになってボールを送り出すことになる。この瞬間が投球なのだ。ゴルフも同様である。大地に脚を支えてトルソーの、捻りの筋肉を手に伝え、そこからクラブへと流れをつくる。
 最大の難しさはクラブという道具、人間の身体の一部ではなくクラブという道具を経て、力をボールに伝えることである。このクラブのヘッドスピードが最大になる瞬間は、身体がすでに大地を蹴る動作を終えて、左の脚に体重が移動していて「蹴る」より、むしろ「クラブヘッドを送り出す」動作に移っている時なのである。左脚を踏
ん張って、トルソーを回転させて、それを軸にクラブヘッドを瞬間的な絶妙な演出で前方に送り出す。その動作こそスイングの瞬間なのだ。蹴るとか打つというより、クラブヘッドの返る瞬間を演出すると言った方がいい感覚だと思う。へたくそのゴルファーの言うことなのだが、宇宙の真実は同じである。イチローのバットでのヒッティングの瞬間も僕には見える。
 そんな瞬間は、書道だと筆を紙から引き上げるあの終わりの瞬間と同じなのだろうと想像している。人生なら死に際である。人生のスタートは曖昧で見えない。いつの間にか始まっている。音楽の演奏では鍵盤を叩く瞬間ではなく、指を鍵盤から離す瞬間なのだろう。きっとその瞬間にいい音がでるのだろう。息を吸うのは吸い始める瞬間であるより、吸い終わって息を吐き始める瞬間が重要なのだろう。そういえば、歌舞伎の見得は動作の終わり、セリフの終わりにある。一瞬、動作を止めて見得を切る。その瞬間に美しさがほとばしる。
 ゴルフだって美の深淵を発見するチャンスである。
(2009.5.27)