K塾で語られたこと

2009/07/08
 初めてのK塾の日、僕はこんな事を話した。
 デザインとは人と物の関係をつくることだ・・・と。人とは何か?人は、どんな状態でこの宇宙に置かれているか?生命がここに現れた時のこと、自分自身がこの世に生まれた時の想像を絶する不安な体験について説明した。人は、生まれたながらにして「底知れぬ不安」に襲われていること。人の心に長い間、繰り返された不安な体験が記憶されていること。その不安から逃れるために、人は人を愛し、人は友を探し、戦争が絶えず、不安だから宗教や芸術が生まれたのだと・・・。
 物の存在は、デザインの以前に人を安心させただろう。物がそこにあること自体が人を慰める。そこに物を存在せしめること自体がデザインの出発点だと。

 物が産業の活力をつくる。物が人の欲望のせいで、どんどんこの世に生まれてくる。物が空間を埋め尽くして、様々な生活環境の問題を起こしはじめる・・・。  そのすべてが人のこの「底知れぬ不安」と関係している。K塾では、こんな話から、人と物の関係の話を始めた。物は、どういう存在か、物が生活の環境をどう作ることになるか・・・、物と環境の意味について語っていった。
 これは物学の原点である。長年、都市や建築や道具について思索してきたことが、K塾では語られてきた。いずれ、ちゃんと文章として残さなくてはならないだろう。

 自分の前にある操作可能な存在を、人は「物」と感じる。その大きさには、基本的には制限がないのだが、自分のサイズを超えていくと、次第に「操作の可能性」が希薄になる。人は、その時、その存在を「物」から「環境」へと、捉え方を切り替えていく。操作できない時、人はそれを「物」と捉えることを躊躇するのである。
 山のように聳え、谷のように自分を覆うとき、もう人はそれを「環境」と認識し始める。操作できないからだろう。

 物がたくさん集まって人を囲み始めると、物はその気配を重複させて、人を取り巻く大きな存在に変貌し始める。多数の物が、気配の力で環境を構成し始めるのである。この気配は、物がその周りに出すのだが、それもよく考えると、それを感じる人がその気配をイメージするだけである。気配とは物にではなく、人の心に生じる現象である。

 物の存在も人の心に生まれる現象なら、群となって環境に見え始めるのも、人の心の中の現象でしかない。こうして、物と人の関係から、環境と人の関係が見えてくる。

 近代になって、デザインに関する職能は多くの分野に分かれてきた。より深く思索し、より完全にそれをつくるために専門化が始まったのである。その結果、物も環境もばらばらに、それぞれの専門領域から語られるようになった。「物学」とは、それをトータルに語ろうとする学問である。物学では、建築はこう表現できる。「建築は外からは物であり、中からは環境である」と。
 しかし、巨大な建築は、巨大ゆえに外からも環境に見え始める。建築が、たった一つでも巨大であると、都市という環境を形成し始めるのである。ここでも、物の意味は人の心の中から始まっている。
 集落では多くの建築が集まって環境を形成する。そして、一軒一軒の家は、人にとって物であり続ける。

 自動車は外からは物であり、中からは環境であるのだが、中か外かという感覚の相違は、あくまでも人の心の中の意識である。人の心の中に生じる現象でしかない。こうして、物という現象と環境という現象を理解することで、都市や建築や道具という異なった領域が、一つの理論で語ることが可能になり始める。

 K塾では「デザインの原理」を語っていきたい。人の中に、その全てが潜んでいる。デザインを表象としてしか見ようとしない、現代の人々の傾向へのアンチテーゼでもある。

 その一部が、ほんの一部が、「デザイン曼荼羅」にも記述されている。そして、近著「デザインと死」では、その一部が存在感のある「思想のための物」とし
て姿を現している。本とは「物」であり、思想という形を持たないはずのものに、「物としての存在感」が加わるのである。

 第4回目のK塾は次回7月11日(土) 午後4時から始まる。

(2009,7,8)


※第4回目のK塾は、下記の日程で開催いたします。
 日 時:2009年7月11日 (土) 16:00〜 
 場 所:黒川雅之建築設計事務所(東京都港区西麻布3-13-15 パロマプラザB2)
 参加希望の方は、株式会社K 大地(オオチ)まで御連絡ください。
 e-mail:ohchi@k-system.net
 TEL:03-3746-3605