鬼の手震え

2009/09/14
 奥出雲へ出かけた。家庭画報の取材で「秋の奥出雲のトロッコ電車の旅」が主題なのだが、秋の風情はまだまだの中で、それでもトロッコ電車での旅は楽しかった。ライターと写真家と僕たち夫婦と編集者が付き合って、大名気分。いい夏休みだった。
 トロッコ電車の旅は取材だから、まさに特別の旅だった。渓谷を見下ろしながら生ハムやパンやサラダに、白ワイン。取材だから周りも遠慮してくれるし、トロッコ電車の車掌まで秋の衣装に着替えての乗務だから、まさに僕たちは大名旅行だった。

 ところが・・・、今日、ここで書きたいのはその前日に訪ねた渓谷のことである。巨岩だらけの渓谷に実に巧妙に入り込む歩道が設けられている。それも車いすでも入っていけるのだから凄い。

 ここで僕は石についていろいろ考えさせられた。石は初めから何かを語っている。地球の歴史だったり、土に還る自分の未来なのかも知れない。石はそれ自体、強烈な存在感がある。地蔵が石で出来ているから地蔵なのだ。ミケランジェロのダビデも石であることが重要である。石は先ず石であり、石像はその石であることの上に像の意味が重なっているにすぎない。何で出来てるか、その素材が重要な力を出している。

 デザインはこの頃、形ばかりに意識が片寄っている。可愛いだの、かっこいいなどは形の問題だったりすることが多い。PCからネットで情報が送れるのは写真になった「形」である。その素材感や重さや冷たさは伝わらない。だから、「形の時代」になってしまった。そうして形だけを追い求めたデザインは直ぐに消費される。飽きてしまうのだ。

 巨石を見て、デザインとは先ず、存在なのだと思う。存在自体、素材が人のために重要な働きをしている。その上で形なのだ。デザインは素材に形を与えることだな・・・と思っている。

写真は鬼の手震え、光景 
(2009. 9.14)