演奏の動機

2009/09/14
K塾があった。6回目である。「デザインにおける身体性」について1時間半のレクチャーをした。6〜70名が熱心に聞いてくれた。話の内容は、このところ各地で展覧会をしている「素材と身体」のレクチャーバージョンなのだが、要するに素材ではプラスティック時代、情報では映像時代ではどうしても素材より形態が重んじられてしまう。素材はネットで送れないが、映像なら送れる。その上、何もかも消費してしまう時代だから映像なら飽きられて、どんどん変わっていける。そんな時代に「形態なんて沈黙させて、素材の豊富な言葉を聴こうよ」と主張しているのである。
12月には中国の深圳でのデザインフォーラムに招かれていて、この話をすることになっている。
そのK塾で、僕はこんな質問をみんなにした。「自分のために演奏する?人のために演奏する?」と。君がピアニストならどっちなんだ・・・と問うたのである。デザインのことを考えても同じだ。君は人のためにデザインするのかい?或いは自分のためにデザインするの?
殆どのデザイナーは間違いなくこういう。「当たり前だよ。人のためにデザインするのに決まっているよ!」という。それが間違いなんだ・・・と僕は言いたい。詩はこころの中から沸き上がってくるものだ。嬉しいときに歌い、悲しいときに泣く。鳥でなくても人間だってその当たり前の歌の動機が許されるべきなんだ。なのに、だれもそうはいわない。そこが問題なのだ。

デザインはサービス業ではない。自分の歌を歌おうよ。そうすれば、人はその歌に耳を傾けてくれる。その歌が感動的だったら人はなんどでも聞きたいというだろう。問題はその歌が感動的かどうかだけなのだ。人のために歌を歌うことは立派なことだろう。人を勇気づけ、人を喜ばせる歌がいけない筈がない。でも・・・でも・・・人は先ず自分のための歌うべきだ。自分のために演奏すべきだ。自分のためにデザインするべきだ。
他者に媚びることなく、自分の歌を歌うことを聴き手も期待している。思いっきり歌おう。思いっきりデザインしよう。
(2009,09,14)

写真は「自分のためにデザインしたKの商品。僕の作品である。もっと見たければこれをクリックしてください。
http://www.k-shop.net/